技術の急速な進歩、特に人工知能(AI)が急速に進化する中で、人文科学研究に求められるのは、どのようなことでしょうか。AIとは縁遠いように思われる、歴史や文学、哲学、芸術などの学問領域ですが、AIの発展がこれらの分野の研究手法に与える影響は少なからずあります。また人間がAIをどのように使っていくべきかを考える上で、人文学的な知見は役立つでしょう。
ここでは情報の収集や、分析、学際的なコラボレーション、生起し得る倫理的な問題など、AIと人文科学研究について考えてみます。
人文科学とは
日本で、自然科学および社会科学と並べて「人文学」と呼称されることも多い人文科学(Humanities)は、自然科学と社会科学がカバーしない、人類の文化を対象とした学問領域で、狭義では文学や哲学、宗教学、芸術学、言語学などがこれに含まれます。
社会科学系の学問領域において人文科学的な知見や手法が研究に用いられることやその逆もあり、自然科学、社会科学、人文学の境界は必ずしも明確とは言い切れませんが、人文科学の多くの分野に共通して言えることは、分析する対象となるものの中で文献資料や作品が大きな割合を占めるということでしょう。実験や観測を通じて得られたデータを分析することで研究が進められる分野との大きな違いです。
人文科学研究を取り巻く状況の変化
人工知能(AI)の台頭は学術研究の風景に大きな変化をもたらしていますが、このことは、文献を読み込むということに重きが置かれる人文科学の研究も例外ではありません。
たとえば、研究対象となる、資料や作品の検索や読解において、効率と効果を高めるツールや技術が数多く開発・公開されるようになっています。AIを活用した自然言語処理(NLP)ツールを活用し、膨大なテキストデータを分析すれば、他の方法ではなかなか見つけられないパターンや法則性、特質を発見できることもあるでしょうし、AIの生成する図表などで、複雑なデータをより直観的に理解できるようにして、学際的な共同研究や知識の普及につなげられることもあるかもしれません。
ただし、人文科学研究にAIを取り入れることは、倫理的・社会的な問題と無縁ではありません。参照するデータのプライバシー、アルゴリズムによる偏向、すでに確立した見解や強い立場が助長され固定化される可能性など、様々な問題が考えられるでしょう。
研究者がAI技術を使う際には、こうしたAI技術の特性を踏まえた上で、ある程度批判的な視点を持ちながら、学術研究の価値観や原則に沿ったやり方で活用することが重要でしょう。
他の研究領域同様、人文科学研究全般、およびその中の様々な研究領域それぞれにおいても、AIの使用に関する倫理的ガイドラインの策定、透明性と説明責任の促進、AIが社会に与える影響についての分野外の人々との対話といった対策が今後必要となってくるでしょう。
また研究領域によっては、AIの登場で、研究者は従来の方法論やアプローチの再考を迫られます。AIがますます高度化するにつれ、人文科学の研究者でも、データサイエンスやコンピュテーショナルシンキングといった新たなスキルや能力を身につける必要が出てくるかもしれないのです。
ただし、これにはポジティブな側面もあります。結果として人文科学と他の学問分野の境界が曖昧になり、学際的なコラボレーションが促進され、新たな研究分野が生まれる可能性があるのです。
Oxford University Pressが2024年3月から4月にかけて、2345人の研究者(内40%が人文科学、32%が社会科学を専門とする)を対象に行ったアンケート調査で、8割の研究者が何らかの形で研究にAIを使用し、ある程度の利益があるとは認めているものの、意図せぬ著作権の侵害や情報漏えい、また、AIの使用が人間の批判的思考力に与える悪影響について懸念を示したのは興味深い結果と言えるでしょう。
人文科学を活性化する学問領域の越境
伝統的な学問領域の区分を超えた学際的コラボレーションや異なる分野の手法を取り入れた研究は、複雑な命題や対象に対する革新的なアイデアや理論を導きうるものです。多様な研究分野の手法や考え方が、人文科学研究を活性化し、新たな探求の道を切り開く触媒として機能するのです。
たとえば、大量のテキストデータから情報を引き出すテキストマイニングは、AIの登場で膨大な情報を精緻に解析できるようになりましたが、このAIテキストマイニングの手法を文学作品に用いることで、主として定質的な方法が取られる文学研究に定量的な研究手法を導入することができます。その他の表現や文化的な事象、歴史や宗教についても、AIを用いた分析が、これまでとは異なるアプローチを可能にするでしょう。
文化遺産の保護に貢献するAI
AIは過去の文献の読解や文化遺産の保護においても革新をもたらします。
自然言語処理と機械学習アルゴリズムによって膨大な古文書の分析と解釈が飛躍的にスピーディーに行えるようになったことで、これまで見えてこなかった事実も明らかになります。AIで読み込んだ資料をデジタルアーカイブ化し、より多くの人々がアクセスできるようにすれば、様々な分野の研究を促進させることにつながるでしょう。また、史跡をバーチャルに再現すれば、研究分野への広い関心や関心や理解を喚起できるでしょう。
AI翻訳と文字起こし
AIによる翻訳や文字起こしは人文科学系の研究者にとってますます重要なツールになりつつあります。Google翻訳やDeepLをはじめとした機械翻訳(MT)システムは100%の精度ではありませんがその技術的発展は目覚ましく、大量のテキストを迅速に翻訳できるため、自分で理解できる言語以外の情報を取り入れることができるようになりました。これは、幅広い視野での研究や、多くの文化や文明との比較研究などを促進するものです。専門分野によっては、国際的な共同研究もこれまで以上にスムーズになるはずです。
また、AIによる文字起こしも、多くの言語において近年飛躍的に精度が向上しています。研究において、口頭でのアンケートや、フィールドワークでのインタビューが行われる場合、その内容を迅速かつ正確にテキスト化できれば、研究者の負担を大きく軽減でき、要約や解析のツールと併用すれば分析も、より効果的に行えます。文字起こしにより情報のアーカイブ化を徹底できれば、研究分野全体にも資することができます。
人文学的な知見や思考は、AIがはらむ倫理的問題への解決に役立つ
上述の通り、学術研究に限らず、AIを利用する際にはそれがはらむ倫理的問題への配慮が必要です。学習するデータセットの偏りに起因する公平性の欠如や、プライバシーや権利の侵害、責任の所在の曖昧さなど、AIの使用にまつわる問題を扱ったニュースは私たちが頻繁に目にするところですが、ビジネス等でのAI使用時に起こりうる問題の多くは学術研究での活用の際にも想定されます。
ですから、一般でのAI使用だけでなく、学術研究全般、そして人文科学分野の研究についてのガイドラインや、基本的な考え方、枠組みの策定が求められるでしょう。そして、その際に顧みられるべきなのが、倫理学や哲学といった、まさに人文学が積み重ねてきた知見です。
AI時代においては、人文科学研究の方法論やアプローチに他の学問領域のそれらが流入するように、人文学的な思考が、他の学問分野を含むより広範な領域に実用性を伴って拡がる余地があるのかもしれません。
参考資料
Researchers and AI Survey Findings, Oxford University Press