エナゴでは、英語での学術論文発表数も多く、海外から注目される先生方にインタビューを行っています。その際、学生を指導する立場におられる先生方に、上手く英語で論文を執筆するためのアドバイスをお伺いしていますが、複数の先生方から、まずは日本語でロジカルに執筆できるようになることが大切だとのお言葉をいただいてきました。このシリーズでは、エナゴのライター久利 武蔵が、日本語の「てにをは」や、ことばのニュアンス、オンラインツールの使い方など、日本語をより正確に伝わりやすく書くための方法について考えを巡らせていきます。
今回のトピックは、「一文の長さについて」です。
石破構文
石破茂首相は19日、東京都内で開かれた経済関係者の会合で、自身の国会答弁が交流サイト(SNS)などで「回りくどく、あいまいな石破構文」とやゆされていることについて反省の弁を語った。「おしかりを頂いている。何を言っているのか分からないような言い方は、なるべく最初から結論をちゃんと言わないといけない」と述べた。
(2024年12月20日共同通信配信によるニュース。太字強調は引用者)
「何を言っているかよく分からない」とされる文章や発話の一つの典型に、文頭からは結論がよく見えないというものがあります。特に日本語の場合、述語は文末に置かれることが多く、長い一文にもどかしさを感じる人も少なくないでしょう。そしてSNSなどの短文やAIによる要約に触れることが多くなってしまっている現在の私たちは、結論を宙づりにされることへの耐性が極めて低いかもしれません。
文末の裏切り
パンクブーブーというお笑いコンビの少し前の漫才に『万引き』というものがあります。コンビニの万引きに遭遇したという、ボケ担当(佐藤哲夫氏)の語りで進められるネタです。万引き犯に気づいた自分のことを再現するくだりは、
「おい何やってんだ!」…って、思ったんだよ。
とあり、それを受けた万引き犯の描写は、
「てめぇ、さっきから何ジロジロ見てんだよ!」…っていう表情を浮かべてきたね。
と続けられます。
ともに話者と万引き犯が大声で怒鳴りつけたかのように語り出しながら、言葉尻で観客の予想を裏切る。その後も、コンビニ店内で自ら万引き犯と対峙するかのような話の流れでは、
もう決死の覚悟で、その兄ちゃんに立ち向かって…くれそうな人を探した!
とあり、そして
『ここで俺がやらなきゃ誰がやるんだ』っていう本を棚に戻して
そこで見つけたのが(中略)見るからにメッチャメチャ強そうな酒を飲んでるじじいなんだけど
などの台詞を重ねていきます。
全体に通底するのが、文の前半から予想される結論と、文末で明らかになる実際の内容との乖離・ギャップの面白さです。日本語の複文(複数の主語と述語が含まれる文)において、文末にある述語を中心とした説を主節として、それより前に置かれる従属節が主節の意味を補う場合、一文が長くなればなるほど、冒頭においては全体の主語や述語がつかみにくくなります。この漫才では、聴き手の予想を裏切るために、巧みに文が引き延ばされます。
長文のもどかしさ
中学・高校時代の英語の授業で、関係代名詞を含む英文を和訳する際、後ろに繋がれた長い従属節の内容を、日本語で前に持ってくることに居心地の悪さを覚えたことがあるのはこの記事の執筆者だけではないでしょう。英語ならば結論が先に来るのに、日本語にすると結論の開示は遅延される、と。
もちろん、分かりやすさのために原文の一文を分割して、前から順に翻訳するということを推奨する教師もいるでしょうし、通訳の現場や、映像翻訳においては、そうした実践は不可避です。(限られた時間の中で訳せる語数には限度があり、映像よりも先に字幕でネタをばらすことは禁忌だからです。)
文章の指南でも、長文を避けることを推奨するものが少なくありません1。それが目指すのは、長い英文の直訳に類した文に特有の分かりにくさを回避し、誤読の余地を可能な限り排除することです。また、一文が長くなればなるほど、ケアレスな書き手が、主語と述語の対応関係が不適切な「ねじれ文2」を生み出してしまうリスクも高まります。実用的な作文技術の教科書が、文を短くするように説く背景には文法ミスを防ぐ意味もあるのでしょう。
分かりやすさ≠論理性
とはいえ、ただ分かりやすくすることによって取りこぼされるものもあるでしょう。二項対立のロジックでは語り得ないことを、単純化し分かりやすくしてしまうことはロジカルではないはずです3。パンクブーブーの漫才にも、論理や文法の破綻もありません。
70年代や80年代の蓮實重彦先生の著作4に触れると、読点なしにページを跨いで行く独特の文体について、好き嫌いは分かれるでしょうが、そこに特定のロジックを読み取ることができるでしょう。蓮實先生の文体のような非常に意図的なものは極端ですが、単純ならざる条件や仮定といったいくつもの要素が介在する事象や概念を言語化する際には、一文一文が長くならざるを得ないこともあるでしょう。
しかし、一方でそうした文体が、読みのモードを規定し読者を選別してしまう、あるいは恣意的な読解を許容してしまう、といったことも起こり得ます。
例えば、プレスリリースや、ビジネスメール、そして学術ジャーナルへの投稿原稿やそれに沿えるレターなどについては、読者層の限定や幅広い読解の余地をもたらす文章は歓迎されません。そうしたプラクティカルな色合いの強い文章については、一般的な文章指南にあるように、「一文一文を短くする」、「主語と述語の距離を短くする」というような心掛けは有効なはずです。原則に従った記述が、読み手へのメッセージを明確にするのです。
ただし、すべての文章が、実用的な目的を伴うわけではありません。谷崎潤一郎の随想「客ぎらい」5は、次のような書き出しで始まります。
たしか寺田寅彦氏の随筆に、猫のしっぽのことを書いたものがあって、猫にああ云うしっぽがあるのは何の用をなすのか分らない、全くあれは無用の長物のように見える、人間の体にあんな邪魔物が附いていないのは仕合せだ、と云うようなことが書いてあるのを読んだことがあるが、私はそれと反対で、自分にもああ云う便利なものがあったならば、と思うことがしばしばである。
(踊り字=一の字点/くの字点を引用者が平仮名に変換)
味わい深いですね。
今後の石破総理なら、開口一番「猫のしっぽのような便利なものがあったならば、と私はしばしば思います。」とでもおっしゃるところでしょうか。尻尾の付いた総理を想像したくはありませんが。
注
1 例えば『悪文の構造——機能的な文章とは』(千早耿一郎著、ちくま学芸文庫)
2 「ねじれ文」の例:「それが目指すのは、上記のような長い英文の直訳に類した文に特有の分かりにくさを回避し、誤読の余地を可能な限り排除します。」
3 SNSにさらされて、結論を一言で知りたがる私たちには、武田砂鉄氏による『わかりやすさの罪』(朝日文庫)は戒めとなるかもしれません。
4 例えば『表層批評宣言』(ちくま文庫)
5 中公文庫『陰翳礼讃』所収